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第3章 脳のコンディショニング — UNLOCKが提唱する新概念
「鍛える」と「整える」は、まったく違う
スポーツの世界では、選手のパフォーマンスを支える概念が、ふたつあります。
ひとつは「トレーニング」。筋力をつける、持久力を伸ばす、技術を磨く。能力の上限を引き上げる行為です。
もうひとつが「コンディショニング」。整える、回復させる、最適な状態に置く。本番でその能力を引き出すための準備です。
オリンピックに出る一流のアスリートは、ほぼ全員、後者に膨大な時間とお金を投じます。トレーニングだけしている選手は、たいてい本番で実力を出せません。能力(stock)があっても、当日のコンディション(flow)が崩れていれば、すべては無意味だからです。
ところが、こと「脳」になると、私たちは、トレーニングのことしか語ってきませんでした。
「脳を鍛える」「脳トレ」「集中力アップトレーニング」。
書店の棚に並ぶ脳系の本のタイトルは、ほぼすべて「鍛える」発想です。
これは、半分は正しい。脳は、ある種のトレーニングで能力が伸びます。
しかし、もっと大事なことが、ずっと見落とされてきました。
鍛える前に、整える。
整っていない脳は、どれだけ鍛えても、本番で実力を出せません。
逆に、整った脳は、特別なトレーニングをしなくても、いまある能力を最大限に発揮します。
「鍛える」より、まず「整える」。
これが、本書で繰り返しお伝えする、脳との付き合い方の基本姿勢です。
そして、私たちUNLOCKは、この「脳を整える技術」を、脳のコンディショニングと呼んでいます。
なぜ「整える」が見過ごされてきたのか
なぜ、これほど大事な「整える」が、長らく見過ごされてきたのか。
理由は、おそらく、目に見えにくいからです。
筋肉は、鍛えれば大きくなります。シックスパックは、写真に撮れます。
脳は、整えても、見た目はまったく変わりません。
しかも、整える行為は、地味です。
よく眠る、よく歩く、よく食べる、たまにぼんやりする。
本のタイトルにしにくく、SNSで自慢にもなりません。
代わりに「脳を鍛える、賢くなる、IQを上げる」は、わかりやすく、売れます。
だから、書店も、メディアも、教育産業も、こちらに偏ってきました。
しかし、ここ10年で、世界の脳科学は、その重心を変えました。
脳の最適なパフォーマンスは、もっぱら脳の「状態」によって決まることが、次々と明らかになってきたからです。
睡眠、栄養、運動、ストレス、人間関係、これらの状態因子が、IQや認知トレーニングよりはるかに大きな影響を、認知パフォーマンスに与える。
それが、近年の神経科学のおおむねの結論です。
整えるは、地味です。
でも、効きます。
そして、ここ数年でようやく、世界が、その「地味だが効くもの」のほうに、本気を向けはじめました。
エネルギーで脳を捉え直す
脳のコンディションを理解するうえで、まずひとつ、頭の置き場所を変えてほしい事実があります。
人間の脳は、体重のわずか2%程度の臓器です。
ところが、その脳は、全身が摂取するエネルギーの約20%を消費します。
体重比10倍の燃費の悪さです。
これは、すべての臓器の中で、もっとも非効率なエンジンと言ってもいいレベルです。
なぜ、そこまでエネルギーを使うのか。
脳は、起きているあいだ、休まず神経細胞のあいだで信号をやり取りし、化学物質を作り、不要なゴミを掃除し、記憶を整理しているからです。
止まれない、止めると死ぬ。
そんな高燃費高出力のエンジンを、私たちは頭蓋骨の中で常時稼働させています。
ここから、ひとつの大事な視点が出てきます。
脳のコンディションは、エネルギーの収支で決まる。
入ってくるエネルギー(食事、睡眠中の回復)と、出ていくエネルギー(思考、ストレス対処、情動コントロール)の収支。
入ってくるほうが多ければ、脳は整います。
出ていくほうが多ければ、脳は消耗します。
たったこれだけのことが、私たちの集中力、判断力、機嫌の良さの大半を決めています。
整えるとは、つまり、このエネルギー収支を、毎日、黒字に保つことです。
鍛えるとは、その黒字の土台の上で、能力を引き上げる行為です。
土台がマイナスのまま能力を引き上げようとしても、収支がさらに悪化するだけです。
だから、整えるが、先。
コンディションの3つの軸
脳のエネルギー収支を整えるには、3つの軸があります。
これが、本書の後半で展開する、3つの章のテーマです。
軸1: 動き(運動)
人間の脳は、もともと動きながら情報を処理するように作られています。
20万年の進化のあいだ、人間はずっと歩き、走り、追い、逃げて、暮らしてきました。
脳の中の神経成長因子(BDNFと呼ばれる物質)は、運動によって分泌が促進されます。
海馬の体積は、有酸素運動を続けることで、実際に大きくなることが確認されています。
座って勉強するほど賢くなる、という常識は、半分しか合っていません。
動かす時間が確保されていてはじめて、座学の効果が出ます。
詳しくは、第4章で。
軸2: 燃料(食事)
全身のエネルギーの20%を使う脳にとって、何をどのタイミングで食べるかは、致命的に重要です。
血糖値の急上昇は、その後の判断力を確実に低下させます。
オメガ3脂肪酸は、うつのリスクを下げ、認知機能を維持します。
腸内細菌は、神経伝達物質の生成に深く関わり、気分と思考に影響します。
ところが、現代の食事は、加工度が高く、糖質と脂質に偏り、食物繊維が圧倒的に不足しています。
これは、脳にとって、慢性的な栄養不足の状態を生んでいます。
詳しくは、第5章で。
軸3: 回復(睡眠と余白)
脳は、起きている時間と、眠っている時間で、まったく違う仕事をしています。
起きているときに学び、眠っているときに整理する。
さらに、ぼんやりしている時間(デフォルトモードネットワーク)に、創造的な統合が進みます。
慢性的な睡眠不足、休日もスマホを見続ける生活、常にタスクに追われる日々。
これらは、脳に「整理する時間」を一切与えません。
結果、いくら情報を入れても、知恵にならない。判断は鈍り、創造は枯れる。
詳しくは、Vol.1(『脳の資本を育てる子育て』)の睡眠章や、本書の後半でも触れます。
この3つを統合的に管理することが、脳のコンディショニングの基本構造です。
UNLOCKが現場で見てきたこと
私たちUNLOCKは、複数の領域で、脳のコンディショニングを実装してきました。
ここで、その現場の声をいくつかご紹介します。
子どもの教室で
ドイツ発の「Life Kinetik」という、動き+認知の同時負荷を使った脳のトレーニングプログラムがあります。世界各国の子どもの脳機能発達と、高齢者の認知機能維持のために開発されました。
私たちは、これを日本の子ども向けに展開しています。
ある教室の子どもたちのデータを取ると、興味深いことがわかりました。
3ヶ月のプログラムを受講した子どもたちの学校の成績が、平均してわずかに上昇していた。
しかし、もっと大きな変化は、別のところにありました。
朝の機嫌、宿題への集中、友人関係の安定、保護者からの報告で、こちらが圧倒的に伸びていたのです。
子どもの「学力」を狙って入った保護者が、いつのまにか「うちの子、最近すごく落ち着いた」と報告に来る。
これは、認知資本だけでなく、情動資本と社会資本が、運動という単一の介入で同時に底上げされた、ということです。
脳のコンディショニングが、子どもの脳の全領域に波及する好例でした。
企業の健康経営で
私たちはまた、複数の企業で健康経営の伴走支援をしています。
そこで多く採用しているのは、社員の認知機能を可視化し、運動・食事・睡眠の改善プログラムを組み合わせる仕組みです。
ある中堅IT企業では、半年間のプログラムで、社員の自己報告ベースの集中力が大きく改善しました。
副次的な効果として、欠勤率、離職率、社員満足度のすべてが改善しました。
組織のパフォーマンスを上げるために、新しい施策を増やしたわけではありません。
社員一人ひとりの脳のコンディションを底上げしただけで、組織が静かに動きはじめました。
これは、第1章でお話しした WEF の Brain Capital 概念の、企業レベルでの実装そのものです。
プロアスリートの現場で
プロアスリートのメンタル指導の現場でも、似たことが起きます。
試合での集中力、本番のパフォーマンス、怪我からの復帰スピード。
これらは、技術トレーニングだけでなく、脳のコンディショニングを並行させて、はじめて伸びます。
一流の選手ほど、よく眠り、食事に気を配り、試合前の自律神経の整え方を知っています。
彼らは、すでに本能的に、脳のコンディショニングのプロです。
私たちがやっているのは、そのコツを、ビジネスパーソンや子育て中の親に、翻訳することです。
「脳のコンディショニング」という新しい行動様式
ここで、本書のキー概念を、もう一度はっきり定義しておきます。
脳のコンディショニングとは、日々の運動・食事・回復・人間関係・意味づけを通じて、脳のエネルギー収支を黒字に保ち、ピークパフォーマンスを引き出せる状態を、継続的に維持・改善する行動様式のこと。
これは、トレーニングではありません。
ダイエットでも、ライフハックでも、ありません。
これは、人生のあらゆる場面で脳がベストに動くための、土台づくりの技術です。
そして、この技術は、特別な才能を必要としません。
特別な教材も、高額なジムも、要りません。
必要なのは、運動・食事・回復という3つの軸を、自分の生活に意識的に組み込んでいく、ささやかな決意だけです。
「鍛える」を、急がない
最後に、ひとつ強調しておきます。
本書では、「脳トレ」「集中力ハック」「速読」のような、能力を直接引き上げるトレーニングの話は、ほとんどしません。
それらは無意味ではありませんが、整っていない脳に施しても、効果は持続しないからです。
逆に、コンディションさえ整えば、特別なトレーニングをしなくても、あなたの脳はもともと持っている能力を、相当の水準で発揮するようになります。
整ったあと、「もっと脳を鍛えたい」と思えたら、そのときにトレーニングに進めばいい。
順番は、いつも、整えるが、先。
そして、整える行為そのものを、生涯続けていく。
それが、脳のコンディショニングという行動様式の核心です。
この章のまとめ
脳は、鍛える時代から、整える時代に入りました。
脳のコンディショニングとは、エネルギー収支を毎日黒字に保ち、ピークパフォーマンスを引き出せる状態を維持する技術です。
その3つの軸は、動き(運動)、燃料(食事)、回復(睡眠と余白)。
このうち、本書は次の章から、動きと食事を中心に深く掘り下げます。
次の章では、なぜ「動かす」ことが脳にとってこれほど決定的なのかを、最新の科学エビデンスと、UNLOCKの現場知見でお話しします。
座って読書するこの瞬間も、あなたの脳は本当はもう少し動きたがっています。
その理由が、次章で明らかになります。