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第4章 動く脳をつくる — 運動と認知の最新科学
運動は、筋肉のためではない
ジムに通う、ジョギングをする、ヨガをする。
これらの活動の目的を聞かれて、多くの人は「健康のため」「ダイエットのため」「ストレス解消のため」と答えます。
あるいは「筋肉をつけたいから」「体型を保ちたいから」。
これらは、間違ってはいません。
しかし、近年の脳科学が明らかにしてきた、運動の本当の効果は、もっと別のところにあります。
運動は、筋肉のためではなく、脳のためにこそ必要だ。
これは、ハーバード大学医学部の精神科医ジョン・レイティ博士が、自著『Spark(邦題: 脳を鍛えるには運動しかない)』で力強く主張したフレーズです。
出版から十数年、この主張は当初の予想を超えて、世界の脳科学・教育学・経営学に静かに浸透していきました。
いま、運動が脳に与える効果は、研究者の議論の段階を終え、政策実装のフェーズに入っています。
具体的に、運動は脳に何を起こしているのか。
本章では、3つの代表的なメカニズムを紹介します。
メカニズム1: BDNFという「脳の肥料」
運動の脳への効果を語るとき、避けて通れない物質があります。
BDNF (Brain-Derived Neurotrophic Factor、脳由来神経栄養因子)。
長い名前ですが、機能は単純です。
脳の中で、神経細胞の成長を促し、神経細胞同士の新しいつながりを作るのを助ける化学物質です。
比喩で言えば、脳の肥料です。
このBDNFは、何によって分泌が促されるか。
食事でも、サプリでもなく、もっとも強力な促進要因は、運動でした。
とくに、20分以上の中強度の有酸素運動が、BDNFの分泌を急増させることが、複数の研究で確認されています。
つまり、ジョギングをした朝のあなたの脳は、走っているそのあいだだけ気分がいいのではなく、その後の数時間、神経成長因子が増え、新しい学習や記憶の取り込みに最適な状態になっています。
子どもの脳でも、大人の脳でも、70歳の脳でも、これは起きます。
脳の柔軟性(神経可塑性)は、年齢に関係なく、運動で底上げできることが、近年の研究の合意です。
学習の効率を上げたいなら、座って勉強する前に、20分歩く。
これは、根性論ではなく、神経科学です。
メカニズム2: 海馬が大きくなる
もうひとつ、運動の決定的な効果は、海馬という、記憶の中枢を司る脳の部位に対する作用です。
イリノイ大学とピッツバーグ大学のカーク・エリクソン博士らのチームが、高齢者を対象に行った有名な研究があります(2011年、米科学アカデミー紀要 PNAS)。
研究では、平均年齢66歳の約120人の高齢者を2つのグループに分け、片方には週3回・1回40分程度のウォーキング(有酸素運動)を、もう片方にはストレッチなどの軽い運動を、1年間続けてもらいました。
その結果、ウォーキングを続けたグループでは、加齢とともに縮むはずの海馬の体積が、平均で約2%増加していました。これは、加齢による萎縮を1〜2年分巻き戻した計算になります。しかも、この海馬の増大は、運動によって増えたBDNFの量と相関していました。
記憶力は年齢とともに一方的に衰えるものだと長く信じられてきましたが、この研究は、適切な運動によって記憶の中枢そのものが物理的に育ち直すことを示したのです。
メカニズム3: 前頭前野の血流が増える
3つめのメカニズムは、前頭前野への作用です。
前頭前野は、計画、判断、感情のコントロール、集中の持続といった、人間ならではの高度な認知機能を担う領域です。
有酸素運動をすると心拍数が上がり、脳への血流が増えます。とりわけ前頭前野への血流が増えることで、運動直後の数十分から数時間、集中力・判断力・実行機能が高まることが、数多くの研究で確認されています。
座って考えるより、歩きながら考えるほうがアイデアが出るのは、気のせいではないのです。
運動を、生活に埋め込む3つの工夫
「運動が脳にいいのはわかった。でも、わざわざジムに行く時間がない」——そういう方のために、日常の動きに認知的な負荷を重ねる、現実的な工夫を3つ紹介します。
1. 階段を上りながら、暗算する
エレベーターを使わず、階段を上る。それだけでも有酸素運動として優秀です。
ここに、頭の中で簡単な暗算を加えます。
3階分を上る間に、「100から7を引き続ける」「7の倍数を100まで数える」などをやってみてください。
2. 散歩しながら、音声学習・ポッドキャストを聞く
私が個人的にもっとも続いている習慣のひとつが、朝の30分散歩中の音声学習です。
散歩という単一の動きと、知的入力という認知作業を、同時にこなします。
3. 立ちながらの会議、歩きながらのブレスト
スティーブ・ジョブズが、重要な議論を「Walking Meeting」でやっていたのは、有名な話です。
2014年のスタンフォード大学の研究(Oppezzo & Schwartz)では、座って考えるよりも歩きながら考えるほうが、創造的アイデアの量が平均で約60%多い、という結果が出ています。
米国Naperville高校の伝説
運動が脳に与える効果を、最大規模で社会実装した例として、米国Naperville高校の体育改革は、いまも教育界の伝説として語られます。
シカゴ郊外のこの高校では、1990年代、ある体育教師が、朝の授業の最初に、心拍数を意図的に上げる軽い運動を導入しました。
その後、この学区の生徒たちが国際的な学力調査TIMSSを受けたところ、「ひとつの国」として比較すると理科で世界1位、数学で世界6位に相当する、際立った成績を収めたことが報告されました。
その後の追跡で、運動を朝の授業前に組み込んだ学校では、学習成績だけでなく、肥満率の低下、いじめの減少、保健室の利用率の低下まで、副次的な好影響が広範に報告されました。
これは、運動が「気分の問題」や「健康の問題」ではなく、脳のコンディションを底上げすることで、人生の全領域に波及することを示した、もっとも有名な実証例のひとつです。
子どもの世界で起きたこの変化は、大人の組織でも同じ仕組みで起こります。
朝、職場全体で20分歩く時間を設けるだけで、その日の組織のパフォーマンスは、別物になります。
「1日20分」が、最初の閾値
最後に、忙しい現代人のために、現実的な閾値をお伝えします。
各種の研究を統合すると、脳のコンディションを継続的に底上げするために必要な運動量は、おおむね1日20分の中強度有酸素運動であることが、ほぼ合意となっています。
中強度というのは、「歌は歌えないが、会話はできる」程度の負荷です。
早歩き、軽いジョギング、軽い坂を上る、自転車をやや速く漕ぐ。これらが該当します。
20分です。1日のうち、たった1〜2%です。
これが、脳の資本を毎日積み立てる、最低限のラインです。
私のおすすめは、これを朝に、まとめて確保することです。
午前中の生産性が、確実に変わります。
この章のまとめ
運動は、筋肉のためではなく、脳のためにこそ必要です。
メカニズムは3つ。
- BDNF(脳の肥料)の分泌増加
- 海馬(記憶中枢)の体積増加
- 前頭前野の血流増加
1日20分の中強度有酸素運動。
これが、脳の資本を積み立てる、最低限の閾値です。
そして、できれば、朝に。
動いたあとは、燃料を入れる話です。
次の章では、運動と並ぶ、脳のコンディショニングのもうひとつの柱、「食事」をお話しします。